コミュニケーションの彼岸に。

こちらから相手を見て 相手にも見られて そのどちらも欲して
でないと充実したコミュニケーションとは感じないのは誰でも一緒だと思う。

でも見て見られてという、その双方向の働き故に抑圧にもなる。
どちらかというと普通の人は「見られたい」欲望の方が強いはずで
(見られ方によって己の外観を認知しそれを修正したりさらに歪ませたりするのが
生きてゆき方だと常々思っています)
そうすると見るという作業との量のずれが生じてくる。
確かに見るというのは楽しいことなんだけれども、
見ていますよ、ということを伝えるのは、そしてまんべんなくそれを及ぼすのは
なかなか工夫と体力がいることです。
そのアンバランスさによる居心地の悪さが、少なからず抑圧につながると思う。
抑圧とは「しきれていない」感を無意識のうちに強いられることでもあるから。

やっぱりコミュニケーションっていうのは一種の「酔い」でもあり
そこから醒める時間というのは必要なのだと思う。
完全に遮断してしまったらやはり自分の像をつかむ手だてを失ってしまうけれど、
見られたことで受け取った「他社からの自分の像」を、自分の認知として
引き受けて微調整する時間というか、作業というか、孤独?
手だてや簡易なヒントがない状況の中で、はてと一旦方向性をきめる作業、が
ひとにとって有用な作業だと思うのです。
そしてそこをうまく昇華したら、おそらく、
それに増す楽しみ、醍醐味はないような気もします。

今日の、
原研哉さんのすごく鋭いバランスのtweetを見て、上記のように思いました。

追記:
醍醐っていうのはあやふやですけど美味しい水的な意味だったかと。
アムリタっていうのも、ヨーガで美味しい水的な意味でした。
もちろん実際の水のことではなく、、
まあほんとに俗っぽく下品に言えば脳からそれが垂れているようなイメージを
アーサナのなかでつかむことだったと感じています。
要するに、孤独な認知というのはそのようなものにも通じると思っています。

About paradis

うさぎと暮らしている音楽好き そして認識の先にあるものに触れたい 世界の果てとわたしの果てが一致する その瞬間を待ち続けています

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