調和するのだ。

私のひじは180度しか曲がらない。でも私の脳は考えることができる、
このひじが曲がらなくなったらどうしよう/
逆にこのひじが180度を超えて曲がったら痛すぎるだろう と。

身体は実際ここにある有限の事実で、
脳が引き起こすものはここにはありえないかもしれない無限の可能性です。

ある部分においては、脳のほうが優れているかもしれない。

先ほどはひじでしたがたとえば筋力について、
今身体は実際xxキロしか扱えない、でも、xx+xキロも扱えるかもしれない。
それは可能性を広げるという脳が持つすばらしい機能です。
その時点では、脳と身体は相談しながら+xキロを攻略してゆく。

でも暴走した脳はこういうかもしれない。
α氏はxxxキロを扱う。→だから自分もxxxキロ扱えるはずだ。
これは身体の実際的伸びしろから大きく飛躍した架空の想像です。

脳は感心なようでほぼ大半はとっぴなことも考えているわけです。
かわいらしくはありますがちょっと傍迷惑な隣人にも似ています。

我々が身体感覚をしっかりと持っていたら、この想像を
無邪気なイマジネーションと笑えるのでしょう。
しかし、身体感覚を失いかけていた場合、
本来無邪気であるはずのイマジネーションにぐんと引きずられ混乱してしまう。

ぴったりと身体の声を聞いてそれにそう生活から生まれた
身体感覚は本当に上等な感覚です。
が、それが難しい場合でも、拡大して考えたときの身体感覚とは、
「自分は実際はこの程度の尺だ」それをしっかり認知しておくことだと。
脳が(しばしば)出すエラーを冷静に却下できることだと思います。

できないことはできないし、
できるかもしれないことであれば無理してもしたほうがいい。
しかし、無理もヒトの成長になくてはならないものですが、
回復し得ないほどの無理ならば、期間限定で手放すのも近道かもしれない。

何事もとにかく結果です。
でも最高のパフォーマンスで結果を出すためには、行程の工夫も必要です。

大切な友人へ。

About paradis

うさぎと暮らしている音楽好き そして認識の先にあるものに触れたい 世界の果てとわたしの果てが一致する その瞬間を待ち続けています

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