写真はテキストになりうるか

テクストといったとき一番普遍的な性質は
「ある程度等価な意味を交換できる」ということです。

私が「夏の空」というテクストを用いるとき、
私が語りかける多くの知人は「冬よりも鮮やかな 高い空」と言った意味で
それを聞いてくれるだろうし、私も大体においてその意味で用いています。
暑い一日の高くから光が注ぐ天気に恵まれたとき私は
「夏の空」という単語を用いて世界をテクスト化します。

それでは同じ時に私が撮った「写真」が、
同じように「テクスト」として誰かと交換できるのだろうか?

それに関しては、「意味の等価交換」というテクストの機能においては、
「否」と答えざるを得ないと思います。
写真を撮ると言う行為はコトバを発すると言うそれよりも
随分と濃い身体性を帯びているにもかかわらず、そこから発現する「写真」は
私がこめようとした意味合いからは遠く離れた物質となり、
とたんにその意味は薄くなりほぼ透明にすらなりうる。

私の行為・私の世界をなす意味はどこに消えてしまったのだろうか。

しかしそれゆえに、私の意味の世界が一旦消滅し、
どなたかの意味の世界がそこから始まる「結び目」としての機能は
コトバをテクストとして持ちいるときよりもより純粋に働くのではないでしょうか。
発した者がそれで意味するものはいささかも引きずらずに、
かつ、受け取った者がそこからなにかを喚起したということにその純粋さがあります。
確かに、同じ意味を共有する必要性はこの場合いささかもないのです。

私の見る「夏の空」、誰かの見る「夏の空」。
それは同じではなくても、そこからそれぞれの世界が始まっていくという意味で
「話者と聞くものの場においてのみ生きる」テクストの純粋性は
他に類するものはないような気がします。
そしてそこで強く感じるのは、、私と相手との間にある意味や事柄は、
思うよりもっと軽やかで透明なものでもよかったのだと。

十数年前、とても乱暴に感じた「写真というテクスト」という考え方を
今になって急に思い出し、その答えを少し見出し始めている最近の日々です。
そしてその答えは、もともとの思想とは多少ずれていても構わないのだという
私なりの10年間の答えに似るものでもありました。

About paradis

うさぎと暮らしている音楽好き そして認識の先にあるものに触れたい 世界の果てとわたしの果てが一致する その瞬間を待ち続けています

2 Comments

  1. 写真というテキスト。とても刺激的なテーゼです。
    僕も写真を撮っていてその固有性というものはどこにあるのか。僕という拇印を、拇印を押したいがために撮ったものはつまらなく、写真が窓枠となって世界の外の風を導き入れるという窓枠の無名性にこそ写真の意味はあるのだろう。窓枠がよりいっそう無名になることによってその窓枠が導き入れる風の固有性が生きるのだろうと考えるようにしています。
    この窓枠をここに位置づけたのは私ではない。

  2. shinさん、少しバタバタしておりまして、コメントの反映が遅れてしまって本当に申し訳ありません。
    さて今となってはその拇印すらあやういぐらいの現状に自分はあるのですが、、
    その窓枠は確かに自分がそのとき採用したものではあるけれども誰にでも開かれるような
    そして極端なことをいえば世界がその窓から自分にも入ってくるような、そういう写真が一番自由な写真なんでしょうね。
    世界という大きな錘と、撮る者という錘がなんのタイミングかつながった力の支点?力点?みたいな
    そういう写真が理想です。

コメントを残す